男と女は、愛無くしては、ひと時たりとも生きてはいけない。男と女は、かくも悲しい。
サンマルの事情
 サンマルが納車したが、まだリアアクスルの不調が未解決のままだ。これは経年劣化で、リアアクスルのギアなどの駆動系等が全体的に摩耗・疲労したために起こった現象であろう事は推測に難(かた)くない。とりあえず、エンジンの慣らしを済ませてからどうするか考えよう。いまはお金がないから、しばらくこのままでがまんして乗ってから修理することにしよう。とりあえず、スズキアリーナ鎌倉店の永久保店長に相談しながら、今後の修理計画を立てていこう。さしあたり、久しぶりのサンマルにしっかり乗ってやろうじゃないの。
 しかし、いくらお金をかけたところで、サンマルは良くも悪くもサンマルだ。リフレッシュして新車時の状態に限りなく近づけてから、どう改善していくか考えよう。基本は、外見はノーマルまま、機関系をアップトゥーデイトしたい。現在、外装色は、かなり補修されているとはいえオリジナルのホワイトのままだ。これを丸ペンして、当時の純正色とはまた違った明るめのシルバーにしたい。でも、かなりお金がかかるから、オリジナル色と同じで我慢しておこうかな? 悩むところだ。   ま、それもまた楽し。

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サンマル納車
 2007年1月23日(火)、サンマルがやっと納車した。11ヶ月にわたる長期入庫だった。20年という時を遡(さかのぼ)り、かなり良くなった。しかし、まだリアアクスルからのバックラッシュが気になる。ま、エンジンを完全オーバーホールしたから500kmばかり慣らし運転が必要だそうだ。中央高速を、相模湖から諏訪南あたりまでの250Km往復しようかと考えている。
 しかし、いくらお金をかけようが、しょせんサンマルはサンマルだ。たとえお金と時間をつぎ込んで新車の状態に戻しても、しょせんはいまから20年以上前のクルマに過ぎないのだ。サンマルに現代のクルマを望んではいけない。それを忘れてはならない。

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リチャード・ギアの行方
昨晩、私はリチャード・ギアだった。
その夜、私の妻はリチャード・ギアと深く愛し合った。
目が覚めると、リチャード・ギアは妻の前から姿を消していた。
彼は、彼女の心とからだに確かな愛の痕跡を残して姿を消した。
子宮の考え
妻はよく「女は子宮でものを考えるのよ」と言う。
それはとっても素晴らしいことだと思う。
だって男はどんなにがんばってみても、
子宮でものを考えることなど出来ないのだから。
男には子宮の代わりにについているものはあるが、
残念ながらあれではとてもものを考えられそうにない。
シャル・ウィー・ダンス?
今日テレビで『シャル・ウィー・ダンス』という映画をやっていた。
それを劇場でも見ていた妻が、思い出したように私に向かって言った。
「あなたは、リチャード・ギアに似ているわ」
私は、お世辞にもリチャード・ギアに似ているとはいえない。
しかし、妻には似ているように感じるのだろう。
というより、彼女の眼には私がリチャード・ギアに見えるのだ。

感じるということは大切なことだ。
彼女の中では現時点においてそれは真実なのだから。
明日になればころっと忘れているかもしれないし、
「え〜、似てないわよ」
と言うかもしれない。
でもそんなことはどうでもいいことなのだ。
彼女の今の気持ちが一番大切なのだから。
私は、言った。
「ありがとう。シャル・ウィー・ダンス?」
私の好きなタイトル
自分でいうのもなんだが、
「幸せのジグソーパズル」というタイトルが好きだ。
自分でもセンスのあるなかなかいいタイトルだと思う。

夫婦というものはそのようなものかもしれない。
夫婦2人で、一生かかって完成することのないジグソーパズルを作り上げていくよなものだと。完成しないからこそ意味があるのだと思う。完成しないと分かっていながらも、それでも完成を目指して飽くことなく諦めることなく続けてゆくことが尊いのだと思う。

われわれも出来ることなら、お互いの可能性を信じ希望をもって夫婦生活を続けてゆくことが出来たのならばと思う。
私しか知らないほくろ
みなさん、みなさんには私しか知らないほくろはありませんか?

「ねえ、こんなところにほくろがあるよ。知ってた?」

自分のパートナーのほくろや、自分自身で気がつかなかったほくろをパートナーに見つけられたときに、この男は、あるいは、この女は私だけのものになったのだ、と優越感と独占欲がない交ぜになった情動が湧き上がってきたことはありませんか?
静かなる大発見とでもいえるような……。

それが、ただ単に体だけの次元にに留まらず、心のレベルでもそのような発見がお互いの間で交わされることを望んでやみません。

今、お互いを大切に思っているみなさんへ
そばにいてもいいかい?
「そばにいてもいいかい?」
そう言ったのは、猫だった。
白い猫に向かって。

佐野洋子さんの絵本『100万回いきたねこ』のワンフレーズだ。
男はなかなかその一言が言えない。
と一般化するのはよくないな。
私は、その一言が言えない。
どうしてだか分からないが言えない。
もっとも、今はもうそういうことを言う必要が無くなったから、言えなくてもいっこうにかまわないのだが。

男と女は難しい。
また、男と女でいることも難しい。
 結婚してしまえば、いつの間にか男と女であることを風化させて生きていくのが日本の夫唱婦随の生き方だったのかもしれないが、もはやそれは現代社会ではさまざまな矛盾と問題を巻き起こしていることは誰もが知っていることだ。
 結婚への幻想は、日々の生活の中であばかれてゆき、頼りになるはずだった夫は仕事に逃げ込み家庭を顧みない。よく夫が使う逃げ口上で「子どものことはすべて妻に任せてある」というのがあるが、私にいわせれば笑止千万だ。任せるということはすなわち、「いざ何かあったら任せた自分がすべて責任をとる」という意味なのだが、日本では、「いざ何かあったら任せられたその人にすべて責任を押しつける」という意味で使われている。私の職場の上司もそういう方法を用いて責任逃れをする人だったが、その発言をした次の人事の時に降格させられ涙を流しながら転勤させられ第一線を退いていったが、最後まで自分が降格人事により転勤させられた意味が分からなかったようだ。気の毒な人だが、自業自得だと思った。
 そんなわけで、われわれが子ども時代の両親の姿を見てそれをお手本に夫婦生活を築き上げていこうということはもはや幻想でしかなく、お手本のない状態で現代を生きる夫婦のあり方を模索しながら日々生きてゆかないと生き残れない時代になっている。
 親の言葉の中に「私たちが子どもの頃は〜」というのがあるが、それは子どもから反感を買うだけだからやめた方がいい。子どもたちは親が子どもだった時代に生きているのではなく現代を生きているのだから、何十年も前のカビ臭い話を持ち出されてご立派なことを言われてもなんの役にも立たなどころか、こんな親じゃ何を言っても分かってもらえない、と逆に親が子どもに見捨てられるのがおちだ。それは自分に当てはめてみてもよく分かることだろう。他人から、戦時中はとか、大正時代はとか、江戸時代はとか、縄文時代は、などと言われても、まったく役に立たないどころかかえって不快な思いをするだけなのだ。
 また、夫婦がお互いを見つめ直す作業をないがしろにすれば、将来必ず子どもから手痛いしっぺ返しを食らうことも当然の成り行きといえよう。今の子どもは親を殺す。それは、以前から行われていた親離れの象徴としての親殺しではなく、殺人という現実にはあってはならない方法を用いて親を物理的に殺すことで親に復讐したり、親を乗り越えてゆく作業をする。今は、親(とくに夫)がいい加減な生き方をするときは、いつかは子どもや妻に殺されるかもしれない、という覚悟をもってしなければいけない世の中になったが、それに気づいている人は皆無に等しい。
 つくづく家族というやつは難しいものだと思う。
ゴールと通過点
 結婚する前、妻は結婚はゴールだと思っていた。私は通過点だと思っていた。妻はこの人と結婚さえすれば幸せになれると思っていた。私はこの人と一緒に苦労しながら少しずつ幸せを見つけていければいいな、と思っていた。夫婦でもそれだけ考え方が違う。
 40歳を「不惑」という。40にして惑(まど)わず、という意味だ。時々この諺を持ち出して、あんたももう40になったんだから云々とご立派なことを言う方がいらっしゃる。これは中国の孔子が『論語』の中で述べた言葉だ。しかし、これがいわれたのは紀元前6〜5世紀のことだ。今から2500年も前の話だ。これをいきなり現代に持ってきてご立派なことを言う人を私は分かってないな〜、と思う。自分に言ってくる人には、これはまったくお話にならないなぁ〜、と思う。
 私の信念としては、現代人は主体的に生きようとすれば死ぬまで迷い悩み苦しむものだと思っている。のんびりするのは時々でいいと思っている。
幸せのジグソーパズル
夫婦ってなんだろうね?
好きで一緒になって、
愛するがゆえにお互いに傷つけあって、
謝罪し、お互いの傷をなめあって。
未熟なもの同士が、苦労を共にしながら幸せのジグソーパズルを作り上げてゆく。
結婚することが即幸せになることだとは思わないけど、さまざまな苦労を共にしながらもそこにかいま見られる虹のようなものが幸せというやつなんじゃないのかな。
夫婦とは死ぬまでお互いに紡ぎあい絆を深め合うそんな関係なのかもしれないな。
みなさん、自分のパートナーを大切にしましょうね。
不倫なんてしている場合じゃないですよ。
そんなわけで、お正月は、「秘め始め」ですよ。
義務ではありませんが、もう済ませましたか?
まだの夫婦は、今宵がいいチャンスですよ。
お互いの親密度を深め合ってください。
うちはどうかって?
そんなの聞くだけ野暮ってもんですよ。
だからダンス
夫婦とは多分愛が情に変質した時から始まるのである
情とは多分習慣から生まれるもので生活は習慣である

と佐野洋子さんがとある本で述べていた。

佐野洋子さんとは、
名著『100万回いきたねこ』の作者である。
また、谷川俊太郎の元妻でもある。
犬のため息
 私は、自分でもそう思うのだけれども独占欲が強い。他の女の人と比べても強いと思う。おまけに我慢が出来ない。好きな男が出来たら自分のものにしたい。自分のものにするだけじゃなくて、自分の虜にしたい。自分に惚れてメロメロになっている男を見ると気分がいい。でも昔、ひとりだけそうならない男がいて悔しい思いをした。私に対して熱くならないのだ。好きなのは分かっているし愛しているのも分かっているのだが、それまでの男のように私にメロメロにならないのだ。それに私の過去の男の話を聞いてもまったく嫉妬しないのも不満だった。私のプライドは傷つきじょじょに崩れていった。ある時私は悔しさをこらえて、この男にどうして他の男のように私にメロメロにならないのか問い詰めてみた。すると、いつもと同じようにひょうひょうとしながら「とっくの昔にもうメロメロになっているよ」と答えた。私にはこの言葉が意外だった。今までの男のようにあからさまにメロメロではないのだ。出会ってすぐにこの男は私の男に対する復讐にも似た恋愛の謎を解いていた。それは父親との遺恨だった。エディプスコンプレックス。その遺恨を癒していけば、私の生き方はもっと楽になることが分かっていたらしい。そのうち、その男といることの居心地の良さに私は慣れていった。その男は自分の体の中に自分だけの時計を持ち自分だけのリズムを刻んで生きているようだった。いつもひょうひょうとしていて淡々と生きているように感じられた。いつの間にか私はこの男に飼い慣らされていったのかもしれない。もっと別の言い方をすれば、この男の時計のリズムに合わせて生きることが心地よく自分になじむことに気がついていったのだと思う。べつに私はこの男の檻に閉じこめられたわけではない。例えるならば、お花見をしていて自分たちの陣地であるブルーシートの上に座っているような感じなのだ。自分には十分な陣地があり、そこにはもうひとりこの男がいるだけで、その陣地から出てよその桜を見に行ってもいいし、見飽きたらまた帰ってきてもいい。出入り自由なのだ。そして自分の陣地に戻るとこの男がのんびりとビールを飲みながら桜を眺めている。私が戻ったことに気がつくと、「あ、お帰り。楽しかった?」となにげなく言う。私がいない間に他の女が出入りした形跡はない。不倫には興味がないのかと聞いたことがあるが、プラトニック止まりがいいと言っていた。プラトニック止まりにしておけばいつでも友達以上恋人未満で別れられるかららしい。体の関係、彼はお肉の関係というおもしろい表現をするが、そうなるといろいろ煩わしいことになるからめんどうくさいというようなことを言っていた。それと、いくら女を褒めてもけっして「好きだよ」とか「愛してるよ」と言わないことと、相手から誘われて出かけていっても、自分からはけっして誘わないことだ、とも言っていた。汚いやり方だとも思うが、それなりに一線は引けていると思う。
 この男は時々深いため息をつく。彼はそれを「犬のようなため息」と呼んだ。犬がため息をつくわけはないと思ったが、そう言われて注意して散歩している犬やつながれている犬を見ていると、まるでそっくりなため息をすることに気がついた。犬のようなため息か、おもしろいなと思った。犬がため息をつくとき、犬は何を思っているのだろう? そしてこの男が犬のようなため息をつくときいったい何を感じているのだろう。そして、この男は時々少し目を細めてぼんやり遠くを見ているときがある。それは何だかとても遠くの悲しみを胸に蘇らせているように見えるのだ。私はこの悲しげな目差しのミステリーにはまっていった。いつもとは立場が逆だった。でも私はそのうち考え方を改めた。この男になら負けてもいいんだと。今までの私は、男を愛するのではなく、男を征服することを愛と思っていたのだから。しいてこの男の欠点をあげるならば、待つことは得意なのに待たされることがだいっきらいなことだった。これさえなければいい男なのだが、それは私が欲をかきすぎというものだろうか。
 今の夫はこの男とは違って、待つのが好きで待たされるのは仕方ないと諦める考え方をする男だ。結婚してからずっとダブルの布団で一緒に寝ているけれども、ひとつだけこれだけはしないでくれと約束させられたことがある。それは、一緒に寝ているときに布団の中でけっしておならをしないでくれというものだ。「えぇ〜、めんどくさいなぁ」、と思いながらも、はいはいと返事だけして聞き流しておいたけど、女の子ってけっこうガスが溜まるものなのよね。ふだんは約束を守って布団からお尻を出して可愛くすますようにしているんだけれど、時々こちらの虫の居所が悪いときはとびっきり臭いのを彼の方に向けてしてあげる。そうすると夫は悲しげな目差しで犬のようなため息をつくのだった。それを見るのが楽しくて嬉しくてやめられないというのもあるんだけどね。なんといったってこの男は私の人生の謎を簡単に解いてしまった男なんだから。
お風呂
夫と初めて一緒にお風呂に入ったのは、もう20年近く前になるけど、つい昨日のことのように思えるから不思議だ。もちろん、行きつけ(?)のラブホでだ。それまでにつきあった男の人は何人かいたけど、不思議なことに一緒にラブホに入ったのは彼が初めてだった。彼はけっこう慣れているらしく、このラブホは新しくてシティホテルみたいで好きだ、と言った。ちょっと前までのいかにもといったけばけばしさがなくていい、とも言った。私は、ふ〜ん、そんなもんなのかぁ〜、と思った。お風呂にお湯をはって、その間に軽くビールを飲みながらおしゃべりをした。私はこんなのは初めてだったので、この先のシチュエーションが読めなくて、ドキドキしておしゃべりの中身なんてちっとも覚えていなかった。お湯が溜まって、私が先に入った。脱衣カゴに脱いだ服を見られても恥ずかしくないように几帳面にたたんでおいた。こんな時は軽くシャワーを浴びるんだろうなぁ、と思いながらもしっかりとシャワーをしてから湯船につかった。ふつう旅行番組なんかではバスタオルを巻いて女優さんが入浴しているけどどうしようと考えていたら、お湯は彼が入れてくれた入浴剤で乳白色をしていて湯船につかれば私の裸はまったく見えなかったから安心した。ピンク色の乳首だけがお湯から透けて見えそうな気がしたので両手を胸にあててかくしておいた。バスルームは照明の明るさが調節できるようになっていたから、恥ずかしくないように暗すぎない程度に照明を落としてから彼を呼んだ。シャワーを浴びている彼の裸を横目でそっと覗いてみると、痩せてもいないし太ってもいないし均整がとれていて何だかとっても私にピッタリの体のような気がして嬉しかった。この男の体はもう私のものなのだ、私を悦ばせるためにここにいるのだ、と思うとまだ産んでもいない自分の息子のようでとてもかわいらしく見えてきた。シャワーをおえた彼がバスタブに入ってきた。細長いバスタブに2人は、2人乗りのボブスレーに乗るようにして入った。彼が後から私を抱きかかえるようにして湯船につかった。彼は、私のどこに手を回してくるのだろうとドキドキしながら待った。彼の両手は私のお腹を抱きかかえるようにしてきた。いきなり胸に手をもってこられたらどうしようと思っていたから、少し安心した。彼が少し腕に力を込めて私を引き寄せた。私はちょうど彼の胸のあたりに肩を持っていって寄りかかった。彼が私の右肩にあごを乗せてきた。彼の顔は私の顔のすぐ右隣にあった。彼はふーっと少し長い息をついた。その息が私の右耳の後から前に向かって通り過ぎていった。私もそれにつられてゆっくりと息を吐いて目をつむった。この男はこれから私にどんなことをしてくるんだろうと思うとわくわくした。私のお尻のチョット上のあたり、ちょうど腰骨と背骨がつながっているあたりに気持ちがむき出しになって少し熱くてゴツゴツになった彼を感じた。ああ、彼は私を思って私のために私を悦ばせようとしてもうこんなになっているのか、と思って嬉しくなった。女の子は見た目で気持ちは分からないけど、男の子は見た目で気持ちが手に取るように分かるからいいな、と思った。いつもはポーカーフェイスで余裕のある態度をしているくせして、一番恥ずかしいときに一番恥ずかしいところが一番素直になっているから、この男はいいやつだなと思った。これから私はこの男にいっぱい愛されたいしいっぱい気持ちよくしてもらいたいと思った。そして、私もこの男をいっぱい愛していっぱい気持ちよくしてあげようと思った。
小指の思い出
私の小指はまっすぐじゃなくて、少しS字型に曲がっている。これは母親に似たのだと思うが、私にとっては少しコンプレックスだ。夫は男にしては妙にきれいな手をしている。色白で指が細く長くスラッとしていてとてもセクシーだ。私の自慢の手だ。普通に見るとそれほどでもないが、写真に写っている夫の手なんかを見ると、セクシーを通り越してとてもいやらしくエッチな手に見える。私以外に何人の女性にその手でその指で相手が悦ぶことをしてきたのか想像するとムラムラと嫉妬心が湧き上がってくる。夫は自分の過去を語らない。私がしつこく聞いてもごまかしてけっして教えない。「そんなに多くないよ」とだけ答える。そんなにってどんなにだろう、と私は考える。明らかに深いつきあいをしていた人は私の知っている限りでは4人ばかりいる。その年齢その時代で制約はもちろんあるだろうけど、かなり本気で愛していたようだ。彼の心の中には今でも彼女たちがうごめいている片鱗が感じられる。どこかで耳にした言葉だが「過去の誰かのことを忘れられなくても、新しい誰かのことを愛することは出来ますよ」というのがあった。確かにそうなのだろうけれども、私には今ひとつ釈然としない。とりあえず私は一番新しく愛された女ということなのだ。彼は口がうまい。女の人が悦びそうなことを平気な顔をしてシッラと言う。「いつもかわいいね」「いつもきれいだよ」「いい香りがするね」「その服、よく似合っているよ」「君は不思議だね。きれいでかわいいよ。そんな女性めったにいないよね」。さりげなく次から次へと出てくる。あやしい。きっと他の女性にもそう言っているに違いない。たずねると「本当にそう思ったから言った」という。確かに彼はとても不器用なところがあって、本当にそう思わなければ言えない。お世辞が言えない。そこがいいともいえるが、危険なところでもある。なぜならば、私以外の女の人に対しても、そう思ったら素直に言ってしまうからだ。
私はよく注意する。
女は、いい男を見つけたら自分のものにしたがる生き物だから、相手に誤解されるようなことを言っちゃダメ、って。
彼は言う。
「だって、ホントにそう思ったから言っただけだもん。相手を褒めちゃいけないの? それに、そう思わない人には言わないよ」
「だから、そこがダメなの。世の中は寂しい人だらけなんだから、ちょっと優しい言葉をかけられると私に気があるんだって勘違いするから」
「だって、おれぜんぜんそんな気ないよ」
「あなたがなくても、相手がそう思うの」
「ふ〜ん、そんなもんなんだ。でも、気がある人に言ってもぜんぜん相手にされないんだけどな?」
「あのねぇ、そうじゃないの。女はね最初その気がなくても、繰り返し優しくされると、その心地良さにだんだん気持ちが引き寄せられていく生き物なの」
「ふ〜ん、そうなんだ。ぜんぜん知らなかったよ」
「あのねぇ、前から言おうと思っていたんだけど、あなたはね、なぜかしらどこかしら女を惹きつける、ほっとけない何かをもっているのよ」
「へえ〜、そうなんだ」
「あのね、教えてあげるけどね、あなたの身につけているふとした瞬間に見せる寂しさとか翳りとか、分かる女はそういうのを敏感に察知して引き寄せられていくのよ。そうね、母性本能をくすぐられるっていうのかしら。あの人には私がついていなくちゃダメ、私があの人を幸せにしてあげる、って思わせるものがあるのよ。分かった?」
「よくわかんないな。おれ女じゃないもん。でもまあいいよ。これからは気のない女に優しい言葉はかけないから」
「そうじゃなくて、どんな女にも優しい言葉をかけちゃいけないの」
「はいはい、分かりましたよ。きびしいなぁ」
ダメだ、まだぜんぜん分かってない。
夫教育に終わりはないわね。

薔薇の香り
妻と初めて一緒にお風呂に入ったときのことを、たまに思い出すときがある。何がそれを思い出させるかというと、それは香りだ。
バスタブに張られたお湯から、入浴剤のほのかな薔薇の香りが立ち上り乳白色から少しピンクがかった色にお湯を染めていた。
彼女にはそんな淡い香りがよく似合った。
今日使い始めた何ということはない花王ピュアという石鹸の香りに、
そんな記憶が呼び覚まされた。
確かあの時の入浴剤はカネボウの「ローズ園」だったような気がする。
もう、20年近く前の話だ。
今でも彼女は淡い香りのフレグランスを愛用している。
今は、ラリック・オードゥ・ラリック・オードトワレを使っている。いかにもラリックらしい少し凝ったカットのボトルを、淡いグリーンの液体が満たしている。
その存在が背景に溶けてしまいそうなたたずまいをあたりに漂わせている。
出会いと別れ
出会って別れて、
また出会って別れて。
人生の中で、大切な人との出会いと別れを何回繰り返すのだろう。
出会いと別れはセットになっている。
ひとりの人をずっと愛する人もいるだろうし、
多くの人と愛し合う人もいるだろうし。
それは、その人の宿命なのだろう。
何度出会い、何度別れても、
お互いが後悔しない人生であればそれでいいのだろう。
私は別れ下手だから、
ひとりの人と長く深く愛し合うのが性に合っているようだ。
何度出会っても、また惹かれ合い恋に落ちてしまう……。
そんな人と巡り会えたら幸せだろうな。