FC2ブログ
男と女は、愛無くしては、ひと時たりとも生きてはいけない。男と女は、かくも悲しい。
子宮の考え
妻はよく「女は子宮でものを考えるのよ」と言う。
それはとっても素晴らしいことだと思う。
だって男はどんなにがんばってみても、
子宮でものを考えることなど出来ないのだから。
男には子宮の代わりにについているものはあるが、
残念ながらあれではとてもものを考えられそうにない。
スポンサーサイト



シャル・ウィー・ダンス?
今日テレビで『シャル・ウィー・ダンス』という映画をやっていた。
それを劇場でも見ていた妻が、思い出したように私に向かって言った。
「あなたは、リチャード・ギアに似ているわ」
私は、お世辞にもリチャード・ギアに似ているとはいえない。
しかし、妻には似ているように感じるのだろう。
というより、彼女の眼には私がリチャード・ギアに見えるのだ。

感じるということは大切なことだ。
彼女の中では現時点においてそれは真実なのだから。
明日になればころっと忘れているかもしれないし、
「え~、似てないわよ」
と言うかもしれない。
でもそんなことはどうでもいいことなのだ。
彼女の今の気持ちが一番大切なのだから。
私は、言った。
「ありがとう。シャル・ウィー・ダンス?」
私の好きなタイトル
自分でいうのもなんだが、
「幸せのジグソーパズル」というタイトルが好きだ。
自分でもセンスのあるなかなかいいタイトルだと思う。

夫婦というものはそのようなものかもしれない。
夫婦2人で、一生かかって完成することのないジグソーパズルを作り上げていくよなものだと。完成しないからこそ意味があるのだと思う。完成しないと分かっていながらも、それでも完成を目指して飽くことなく諦めることなく続けてゆくことが尊いのだと思う。

われわれも出来ることなら、お互いの可能性を信じ希望をもって夫婦生活を続けてゆくことが出来たのならばと思う。
私しか知らないほくろ
みなさん、みなさんには私しか知らないほくろはありませんか?

「ねえ、こんなところにほくろがあるよ。知ってた?」

自分のパートナーのほくろや、自分自身で気がつかなかったほくろをパートナーに見つけられたときに、この男は、あるいは、この女は私だけのものになったのだ、と優越感と独占欲がない交ぜになった情動が湧き上がってきたことはありませんか?
静かなる大発見とでもいえるような……。

それが、ただ単に体だけの次元にに留まらず、心のレベルでもそのような発見がお互いの間で交わされることを望んでやみません。

今、お互いを大切に思っているみなさんへ
そばにいてもいいかい?
「そばにいてもいいかい?」
そう言ったのは、猫だった。
白い猫に向かって。

佐野洋子さんの絵本『100万回いきたねこ』のワンフレーズだ。
男はなかなかその一言が言えない。
と一般化するのはよくないな。
私は、その一言が言えない。
どうしてだか分からないが言えない。
もっとも、今はもうそういうことを言う必要が無くなったから、言えなくてもいっこうにかまわないのだが。

男と女は難しい。
また、男と女でいることも難しい。
 結婚してしまえば、いつの間にか男と女であることを風化させて生きていくのが日本の夫唱婦随の生き方だったのかもしれないが、もはやそれは現代社会ではさまざまな矛盾と問題を巻き起こしていることは誰もが知っていることだ。
 結婚への幻想は、日々の生活の中であばかれてゆき、頼りになるはずだった夫は仕事に逃げ込み家庭を顧みない。よく夫が使う逃げ口上で「子どものことはすべて妻に任せてある」というのがあるが、私にいわせれば笑止千万だ。任せるということはすなわち、「いざ何かあったら任せた自分がすべて責任をとる」という意味なのだが、日本では、「いざ何かあったら任せられたその人にすべて責任を押しつける」という意味で使われている。私の職場の上司もそういう方法を用いて責任逃れをする人だったが、その発言をした次の人事の時に降格させられ涙を流しながら転勤させられ第一線を退いていったが、最後まで自分が降格人事により転勤させられた意味が分からなかったようだ。気の毒な人だが、自業自得だと思った。
 そんなわけで、われわれが子ども時代の両親の姿を見てそれをお手本に夫婦生活を築き上げていこうということはもはや幻想でしかなく、お手本のない状態で現代を生きる夫婦のあり方を模索しながら日々生きてゆかないと生き残れない時代になっている。
 親の言葉の中に「私たちが子どもの頃は~」というのがあるが、それは子どもから反感を買うだけだからやめた方がいい。子どもたちは親が子どもだった時代に生きているのではなく現代を生きているのだから、何十年も前のカビ臭い話を持ち出されてご立派なことを言われてもなんの役にも立たなどころか、こんな親じゃ何を言っても分かってもらえない、と逆に親が子どもに見捨てられるのがおちだ。それは自分に当てはめてみてもよく分かることだろう。他人から、戦時中はとか、大正時代はとか、江戸時代はとか、縄文時代は、などと言われても、まったく役に立たないどころかかえって不快な思いをするだけなのだ。
 また、夫婦がお互いを見つめ直す作業をないがしろにすれば、将来必ず子どもから手痛いしっぺ返しを食らうことも当然の成り行きといえよう。今の子どもは親を殺す。それは、以前から行われていた親離れの象徴としての親殺しではなく、殺人という現実にはあってはならない方法を用いて親を物理的に殺すことで親に復讐したり、親を乗り越えてゆく作業をする。今は、親(とくに夫)がいい加減な生き方をするときは、いつかは子どもや妻に殺されるかもしれない、という覚悟をもってしなければいけない世の中になったが、それに気づいている人は皆無に等しい。
 つくづく家族というやつは難しいものだと思う。
ゴールと通過点
 結婚する前、妻は結婚はゴールだと思っていた。私は通過点だと思っていた。妻はこの人と結婚さえすれば幸せになれると思っていた。私はこの人と一緒に苦労しながら少しずつ幸せを見つけていければいいな、と思っていた。夫婦でもそれだけ考え方が違う。
 40歳を「不惑」という。40にして惑(まど)わず、という意味だ。時々この諺を持ち出して、あんたももう40になったんだから云々とご立派なことを言う方がいらっしゃる。これは中国の孔子が『論語』の中で述べた言葉だ。しかし、これがいわれたのは紀元前6~5世紀のことだ。今から2500年も前の話だ。これをいきなり現代に持ってきてご立派なことを言う人を私は分かってないな~、と思う。自分に言ってくる人には、これはまったくお話にならないなぁ~、と思う。
 私の信念としては、現代人は主体的に生きようとすれば死ぬまで迷い悩み苦しむものだと思っている。のんびりするのは時々でいいと思っている。